「書く」はコミュニケーションのひとつの手段にすぎない

 

聴覚に障害がある方と、視覚に障害のある方の講演を聞いたことがあります。
手話通訳の方がついて、ユニバーサルデザインについて講演でした。

 

お二人が掛け合いをしながらの講演だったので、手話通訳の方は、視覚に障害のある方が話したことを、聴覚に障害がある方に伝えるためにいらっしゃいました。

 

お二人の話を聞いたあと、質問コーナーになったところで、ハッとさせられたことがあります。

 

それは、

手話通訳の方は、聴覚に障害がある方のためだけにいるのではない
聴覚に障害のある方に、何かを伝えたいと思う、私たちのためにも存在している

ということ。

 

よーく考えれば当たり前なんですけどね。

お二人の話を聞いている時には、そんなことには、まったく気が付きませんでした。

 

そして、私が講師をさせていただいているビジネスパーソン向けのライティング講座に、今までいらっしゃった、聴覚に障害のある方のことを思い出しました。

今までに、3人の方がいらっしゃいました。


お一人は、読唇で理解されるとのことで、サポートの方はいらっしゃいませんでしたが、もうお一人は手話通訳の方が、残りのお一人は要約筆記の方がサポートなさってました。

 

手話通訳も、要約筆記の方もお一人につき、3人の方がサポートしていらっしゃいました。

20~30分くらいで順番に交代しながら、手話や筆記をなさるのを拝見していて、サポート役の方がいないと情報が得られないのは、大変なことだなあ、と。

 

あの時は漠然と、その程度にしか考えていなかったのです。

 

でも、あのサポート役の方たちは、私が伝えたいことを代弁してくださっていたんですよね。つまり、私のためにも大事な存在だったわけです。

そこまで考えが至っていなかった・・・。

 

私はいま、「書く」という手段を使ったコミュニケーションを仕事にしているわけですが、伝える手段は「書く」だけではないはずです。

 

コミュニケーションをとりたいと相手にあわせて、最適な方法でコミュニケーションをするために、「書く」以外の手段ももっともっと自由に駆使できる存在になりたいと思っています。

 

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